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主に映画にまつわる覚書

アンヌ・ヴィアゼムスキ『一年後』の1968年5月10日

 [2017年10月5日加筆]アンヌ・ヴィアゼムスキ(Anne Wiazemsky, 1947-2017)は2017年10月5日、ガンのため70歳で亡くなりました。

 

 ヴィアゼムスキの小説『一年後』Un an après(Gallimard)は2015年1月8日に刊行されました。『若い女』Jeune Fille(2007。邦訳『少女』(白水社、2010))では、1965年7月から1966年の2月にかけて、芸術家として知られる映画監督ロベール・ブレソン(Robert Bresson, 1901-99)の『あてもなくバルタザール』Au hasard Balthazar(日本語題名バルタザールどこへ行く)に主演した著者の実体験が語られ、『勉学の年』Une Année studieuse(Gallimard, 2012)では、1967年の著者と映画の革新者として時代の寵児となっていた映画監督ジャン=リュック・ゴダールJean-Luc Godard, 1930-)の出会いと同棲、ゴダール監督で彼女を主演とする毛主義の映画『中国女』La chinoise撮影とゴダールとの電撃結婚が語られていましたが、『一年後』では1968年から1969年にかけて国際的映画女優の道を歩み始める著者と政治的に急進化するゴダールの不和が語られます。 

 

 『一年後』に基づく映画、ミシェル・アザナヴィシウス(Michel Hazanavicius, 1967-)監督、25歳のステイスィ・マーティン(Stacy Martin, 1991-)が21歳のヴィアゼムスキを演じ、33歳のルイ・ギャレル(Louis Garrel, 1983-)が37歳のゴダールを演じた映画『恐るべき人物』Le Redoutableはキャンヌ国際映画祭で5月21日に上映され、9月13日に封切られたばかりでした。

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 [2016年6月24日追記]『勉学の年』の日本語訳、アンヌ・ヴィアゼムスキー、原正人(1974-)訳『彼女のひたむきな12か月』(DU BOOKS、税込み2,400円)が2016年7月8日、刊行(発行日は21日)されました。解説は山内マリコ(1980-)です。

http://diskunion.net/dubooks/ct/detail/DUBK122

     [2018年6月2日追記]2018年4月26日に、『恐るべき人物』Le Redoutableはギャガの配給により、『グッバイ・ゴダール!』の題名で、新宿ピカデリーほかで2018年7月13日に公開されることが発表されました。それに先立ち、6月21日からユニフランスの主催で横浜のみなとみらい地区中心に開催されるフランス映画祭2018(6月21日~24日)で6月22日12:30から上映されます。

 

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 [2018年6月12日追記]2018年6月15日、『一年後』の日本語訳、アンヌ・ヴィアゼムスキー、原正人訳『それからの彼女』(DU BOOKS、税込2,592円) が刊行されます。解説は真魚八重子です。

http://diskunion.net/dubooks/ct/detail/DUBK205

 

 1968年5月以後、ヴィアゼムスキが出会った著名人に、クリス・マルケル(Chris Marker, 1921-2012)、フィリップ・ギャレル(Philippe Garrel,1948-)、ベルナルド・ベルトルッチ(Bernardo Bertolucci, 1941-)、アルベルト・モラヴィア(Alberto Moravia, 1907-90)、ガトー・バルビエリGato Barbieri, 1932-)、D・A・ペネベイカー(D. A. Pennebaker, 1925-)、リチャードゥ・リーコック(Richard Leacock, 1921-2011)らがいます。

 1969年2月、イタリアのパードヴァで撮影された『豚小屋』Porcile第二部の撮影現場ではマルコ・フェレッリ(Marco Ferreri, 1928-1997)、ローマのカフェ、ロザッティでのカルメロ・ベーネ(Carmelo Bene, 1937-2002)との出会いがありました。

   1969年2月、ゴダール連合王国でマオ主義の情宣映画『ブリティッシュ・サウンズ』British Soundsを撮る一方、著者はイタリアでピエル・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini, 1922-75)の『豚小屋』第二部に出ました。

 1969年4月、ゴダールチェコスロヴァキアで後に『プラウダ』Pravdaと名づけられるマオ主義の情宣映画を撮る一方、著者はイタリアで1969年3月に、ベーメの『カプリッチ』Capricciに出たのに続き、1969年4月半ばから、フェレッリの『人間の種』Il seme dell'uomo に出ました。

 小説『一年後』は、1969年5月、毎夜、著者に電話し、三夜続けて著者が不在だったことから著者の浮気を疑い、偏執的になったゴダールは突然著者の滞在するホテルに押しかけ、自殺未遂騒動を起こし、一、二年後の著者とゴダールの離別を暗示するところで終わります。 


 Anne Wiazemsky : "J'ai bu le thé sous une table avec Paul McCartney"

 

 少女

 Une année studieuse 

 Un an après

   

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 1968年5月10日、カルチエ・ラタンに午後10時から深夜にかけて三〇のバリケードが築かれた「バリケードの夜(La "nuit des barricades")」について、西川長夫(1934-2013)の『パリ五月革命 私論:転換点としての68年』(平凡社新書、2010, pp.141-143.)より引用します。

 五月一〇日、ナンテール分校の閉鎖が解かれる。しかしUNEFと三月二二日運動は閉鎖の続くソルボンヌの学生に連帯して、占拠によるストライキの続行を決定する。また高校生たちはCALの呼びかけに応じて抗議運動を続け、それぞれの高校の入口にピケを張る(パリで五二カ所に及ぶ)。他方、高校の教員たちも組合の指令に従ってストライキに入る。SNESup、CGT、CFDT、FEN、UGE、UNEF、等の組合の指導部は警察の弾圧を非難する共同コミュニケを発表し、逮捕された組合員の釈放と組合及び政治的活動の自由を要求して一四日火曜日の全国共同デモを決定する。
 ダンフェール =ロシュロー広場では午後五時から高校生の集会が行われ、続いて六時からUNEFとSNESupの集会。参加者の数は三万近くにふくれあがり、カルチエ・ラタンの占拠を叫んでサン=ジェルマン大通りの行進を始める。これに若い労働者が加わって、深夜には至る所でバリケードが築かれ始めた。すでに幾度かくりかえされてたように、予想される事態は明らかであり、代表格のジェスマール、ソヴァジョ、コーン=ベンディットの三人がロッシュ・パリ大学区長の仲介でペイルフィット国民教育相との交渉に臨む。午前一時、総長室を出てきたコーン=ベンディットは交渉の決裂を告げる。大臣は「三つの条件」を拒否し、警察力による解決を選んだのであった。一一日の午前二時、警視長官モーリス・グリモーの命令によって警察の実力行使が始まるが、デモ隊の激しい抵抗は午前六時、夜が明けるまで続いた。後に報道された数字によると、負傷者三六七人、拘留四六〇人、壊された車一八八台、そのうち完全に焼かれた車は約六〇台。「夜のバリケード」には学生や教員の他に一般の市民やジャーナリスト、芸術家たちのグループも多数参加していて、ゴダールの現場の発言やヴィアゼムスキーやレオなど『中国女』のスタッフの写真も残されている。
 デモ隊とバリケードに対する排除命令が出て以後の警察側の「鎮圧」が、常軌を逸したものであったことは、翌日の新聞の記事や後に『黒書』に収められた多数の証言によっても明らかだろう。攻撃用の催涙弾が使われ、多くの負傷者を出しているが、催涙弾は警官の暴行に抗議する住民の部屋にも打ちこまれる。機動隊は逃げる「暴徒」を追って住民のアパルトマンに乱入し暴力をふるうだけでなく、大学や研究所に急設された救護施設にも乱入する。こうした「事件」の経緯を追う報道は、ORTFでは一切禁止されていたが、パリの住民やデモの参加者たちは、「ラジオ・リュクサンブール」や「ヨーロッパ1」などといった小さな民間・周辺放送から、現場中継その他によって刻々と情報を得ることができた。こうした小放送は、時にはデモ隊の側の呼びかけを流し、時には警察の電波を受信して得た機動隊の動きに関する情報を前もってデモ隊に伝えることもありえたのである。六八年に「トランジスター・ラジオ」が、現在の「ケータイ」の役割を果たすことができたのは、こうした小さな民間・周辺放送局の存在によるところが大きいだろう。言論の自由のシンボルとも言えるこうした小放送局は、乱立による電波配分の困難という問題もあって、その後大幅に制限されることになった。

 パリ五月革命 私論

 

    『一年後』の1968年5月10日の「バリケードの夜(nuit des barricades)」の描写(pp.62-64. pp.66-67.)を拙訳で引用します。
 文中に出てくるミシェル・ロジエ(Michèle Rosier,1930-2017)は、女性モード誌『エル(Elle)』創刊者ピエール・ラザレフ(Pierre Lazareff,1907-72)とエレーヌ・ラザレフ(Hélène Lazareff, 1909-88)夫妻の娘で、フランスのスポーツウェア・ブランド"V de V"の創設者です。

   1966年にウィリアム・クライン(William Klein,1928-)が撮影した写真で、オードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn, 1929-93)は、ミシェル・ロジエがデザンしたV de Vの黄色のビニールのジャケットとショーツ、ジヴァンシィ(Givenchy)のタートルネックのセーターを着ています。

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    ミシェル・ロジエの夫のバンバン(Bambam)ことジャン=ピエール・バンベルジェ(Jean-Pierre Bamberger,  ? -2014)は、60年代末にゴダールジル・ドゥルーズGilles Deleuze,1925-95)の双方と親しかった実業家です。ドゥルーズの生涯にわたる無二の親友でした。

 バンベルジェは1945年にソルボンヌ大学時代のドゥルーズと出会いました。

http://www.liberation.fr/societe/2014/10/06/jean-pierre-bamberger-le-prince-des-agents-secrets-est-mort_1116221

 ドゥルーズは1948年から1952年まで、週末はパリに住みながら、火曜から金曜まで、アミアンのリセ(lycée d'Amiens)の哲学教師を務めていました。
 1952年に、ドゥルーズはバンベルジェを介して、リルで、同年10月にリル大学(Université Lille)の心理学助手となったミシェル・フコ(Michel Foucault, 1926~84)と出会っています。

 D・エリボン著、田村俶訳『ミシェル・フーコー伝』(新潮社、1991, p.102.)、6「愛の確執」より引用します。 

 

「ぼくが聴講したのはマルクス主義の傾向のものだったのは非常に明白です」と、彼の講義の一つに出席したジル・ドゥルーズは言う。その講義への出席たるや一回限りにして偶然のものだった。そのころドゥルーズアミヤンの高等中学校で教職にあったが、友人ジャン=ピエール・バンベルジェに会いにリールに出かけたことがあった。このバンベルジェがフーコーの聴講に連れていってくれたのだ。フーコードゥルーズの、これが最初の出会いとなる。ふたりをともにバンベルジェは自宅での夕食に招いたからだった。その夜会は大成功というわけにはいかなかった。ドゥルーズフーコーは、うまく気持ちが通じなかったのだ。そしてふたりがたどる道がふたたび交わるには、何年かの歳月をへなければなるまい。

 

 1967年、トゥルノン通りにあるバンベルジェ夫妻の邸宅の屋上庭園で1967年にゴダールの短篇『キャメラ・アイ』Camera-Eyeと『愛』L'amoreが撮影されました。

 哲学者ジル・ドゥルーズは長らくバンバンの最大の親友だった。リヨンに住み、そこで教え、しょっちゅうパリと行き来していた。そして、その日、5月10日の金曜日、彼はジャン=リュックと私が招待されていた夕食のあと、11時の列車に乗らなければならなかった。

 私たちは彼とすでに何度か会っていた。毎回、ロジエとバンバンの家でだ。ジャン=リュックと彼は奇妙な関係にあった。彼らはまるでお互いを観察し合う警戒心の強い二匹の猫だったが、それでも私たちは彼らがお互いに感心し合っていること、それぞれの立場から相手をほめていることを知っていた。とはいえ、いざ同席してみると、彼らの対話がぎこちないのはあきらかだった。私から見ると、ジャン=リュックはジル・ドゥルーズに関しての自分の慎重さを、彼の率直に「キザな(dandy)」ところを非難することで正当化していた。ドゥルーズには風変りなところがあり、プーシキンのように、爪をとても長く伸ばしたままにして、それは一種のオマージュにも思えたが、彼がそんなふうにしていることに驚いた者はそれを思い出さずにはいられなかった。ジャン=リュックは、私たちがとても敬愛しているロシアの詩人と彼が「不快な鉤爪」とたとえていたものの関連を理解しなかった。とはいえ、その晩、彼らはパリで、最初のうちは、アメリカ人とヴィエトナム人のあいだの平和交渉を、まるでその日の、その夜に報道された出来事であるかのように、一緒に喜び合っていた。 

 その少し前、私の弟ピエール(Pierre)[1949-]が’サン=ジャック通りから電話してきた。弟は、何百人ものリセ生徒と同じように参加したリセ生徒の最初のデモに、とても興奮していた。指令に従って、ストに参加するリセ生徒全員が、それぞれのリセを出発し、彼らのデモの集合地点のダンフェール=ロシュロー広場に向かうことになっていた。ジャン=リュックが受話器を取り、ピエールの話の続きを聞こうとした。「彼に、デモ隊を統率してるのは学生自主警備係(service d'ordre étudiant )か、政治活動家(politiques)かどうか聞いてくれ」「いやそうじゃない。僕らは自分たちだけの自主行動だ。10歳、12歳の者さえ一緒だ」と弟は答えた。その後、希望が満ちてきた。「たぶん、僕らは大学入学試験を廃止させる!」。しかしピエールは一か月半後に試験を受けていた。長いあくびが出た。「パリでのこの時間の行進でくたびれた。テレビで『メトロポリス』Metropolisを見ることにする。今晩何か起きたらまた出かけるよ」。ピエールがフリッツ・ラング(Fritz Lang)の映画を引き合いに出したのは、ジャン=リュックが彼を尊敬していることを知っていて、ジャン=リュックに映画熱狂者見習いとしての熱意を見せたかったからだ。ジャン=リュックが今、どれほどうんざりしているか弟が知ったら……。

 8時頃、トゥルノン通りではほぼ何事もなく、私たちは、ロジエ、バンバン、ドゥルーズと一緒に、トランジスタ・ラジオをつけ、ヨーロッパ第一放送(Europe numéro un)を聴いた。ダニ(Dany)[ダニエル・コーン=ベンディット(Daniel Cohn-Bendit, 1945-)の愛称]が呼びかけていた。「警察がソルボンヌを占拠している。それならカルチエ・ラタンを占拠しよう!」。それは無数の人びとがいたるところに殺到することを意味していた。治安部隊はどう対処するのか。そのあと、なにが起きるのか。

 ロジエの用意した夕食はたちまち食べ終えられた。ドゥルーズはリヨン駅[リヨンに向かう列車の出るパリの駅]で列車に乗り遅れることを心配していた。彼らは三人揃って、前もって決めてあったとおり早めに家を出た。ジャン=リュックと私は二人きりでアパルトマンに残り、どうすべきか、誰と合流するか話し合った。ジャン=リュックは、むなしくもジャン=ジョック(Jean-Jock)[筆者より一歳年下の、ジャン=リュックの友人の極左の学生活動家。ファビアン・リブリ(Fabien Ribery)によるヴィアゼムスキのインタヴューによると、ジャン=アンリ・ロジェ(Jean-Henri Roger, 1949-2012)がモデル。実際にはゴダールが20歳のマオ主義者ロジェと出会ったのは1968年9月頃らしい]に電話し、シャルル(Charles)[ジャン=リュックの若い友人。ジャン=ピエール・ゴラン(Jean-Pierre Gorin, 1943-)がモデルと思われる]と私がその存在を知らない人たちの名前を挙げた。私のほうは弟に電話した。出たのは母だった。弟と母は二人きりでダニの呼びかけを聴いていた。ピエールはすぐにカルチエ・ラタンに向かったとのこと。実は母は嘘をついていた。ピエールは『メトロポリス』の始まる前に寝ていた。母は、新たな暴動の夜と予想しうることから弟を守れると考えて、弟を起こさないように充分気をつけていた。

 新たな暴動の夜? そんなふうには思えなかった。トゥルノン通りのアパルトマンを出たのはまだ日中で、お祭気分がパリに広がっていた。ダニの呼びかけに応じて、大群集がカルチエ・ラタンに溢れかえっていた。学生、リセ生徒、もちろんあらゆる種類のシンパ、大勢の野次馬。一家総出の者もいた。人びとはサン=ジェルマン大通り、サン=ミシェル大通りをそぞろ歩き、それは車の通行不能を意味していた。いい天気だったので、カフェテラスに人が殺到し、移動アイス売りが姿を見せていた。

 

  誰かがジャン=リュックを呼んだ。ジャン=ピエール・レオ(Jean-Pierre Léaud)[1944-]だったが、やや取り乱した様子で、クリス・マルケルとシネトラクト(情宣ビラ映画)の少人数の技術スタッフと一緒だった。シネトラクトは五月初めからの出来事をその日ごとに報告していた。ジャン=リュックは彼らの仕事に感心し、彼らに協力することを考えていた。そして、確かに、少し後で協力することになる。さしあたり、クリス・マルケルと彼は友好の握手を交わした。彼らは大至急映画に撮るべきものについて話し合い、学生たちは私たちに列に加わるか、そうでないならすぐ家に帰るよう頼んだ。警官隊はすぐにでも襲撃するし、状況は刻一刻危険を増しているという。

 警官隊ですって?

 警官隊はそこにいた。リュクサンブール公園の鉄柵の向こうに大勢集合していた。彼らは行動を起こさず、沈黙し、私たちを見張っていた。どのくらい前からだろう。私たちは彼らが再集合しているのに気づかなかった。夜の中輝く彼らのヘルメット、盾だけが彼らがいることを示唆していた。恐ろしかった。私はまだ時間の余裕があるうちに走って逃げ出したかった。ところがジャン=リュックはもう列に加わっていたので、私は彼に合流し、ジャン=ピエールがあとに続いた。

 パヴェ[10センチ角ほどの立方体に削られた砂岩の敷石。パリの石畳の基材であると同時にバリケードの基材でもある]が手から手へと渡し続けられた。ジャン=リュックと私は懸命にそのすさまじいリズムについていった。ところが、この見事な仕掛けはすぐに機能しなくなった。ジャン=ピエールは、パヴェとパヴェの間、歯できつくはさんだハンカチで手を拭いていた。彼は手抜きをしているとみなされ、締め出された。時おり、何人かがしばらく休むため列を離れたが、大勢のシンパか、まだエドモン=ロスタン広場にいた野次馬の一人がすぐに替わった。私はヴァレリ・ラグランジュ(Valérie Lagrange)[1942-]に気づき、今度は私が列を離れた。

 ヴァレリ・ラグランジュはとてもきれいな若い女性、女優、歌手で、私は『ウイークエンド』Week-endの撮影の際に会っていた。深く知り合うほどの時間はなかったが、私は彼女を気に入っていた。彼女は私と同じくらい、これから起こりそうなことを怖がっていた。

 クリス・マルケルのグループのある写真家が私たちの写真を撮った。その写真の私は横顔で映り、当時毎日着ていた、ロジエのデザインしたグレーのパーカを着ている。ヴァレリは正面から撮られ、ヒッピー風のルーマニア刺繍チュニックを着ている。私たちはそれぞれタバコを吸っている。周囲には、不鮮明な人影が夜の中動き回っている。私たちの表情は同じ緊張、不可避の事態への同じ予期を示している。その写真を私はずっと持っている。警官隊の襲撃の数秒前に撮られたものだった[上部掲載の書影参照。『一年後』の帯に使われた写真。ヴィアゼムスキの右の女性がラグランジュ。ただし二人はタバコを吸っていない]。

  

 2015年3月17日のファビアン・リブリによるヴィアゼムスキのインタヴュー

«Merci de me comparer à une grenade» / Entretien avec Anne Wiazemsky | le poulailler

 

    1968年5月6日から13日にかけてのカルチエ・ラタンのニュース映像集。5月10日の映像は3分33秒から5分26秒まで。


   Mai68: La contestation - YouTube

 

 ミシェル・ロジエはヴィアゼムスキの顔が男装の女流作家ジョルジュ・サンド(George Sand, 1804-76)に似ていると思い、後にバンベルジェの製作で、彼女を主演に起用した映画『ジョルジュとは?』George qui?(1973)を監督します。
 クレジットタイトルに流れるマル・ウォルドゥロン(Mal Waldron, 1926-2002)のオリジナル演奏「ライト・オン」Right Onで始まり、同じ曲の流れるクレジットタイトルで終わる(中盤、白い衣装の上に大きな白い布で身体を包んだジョルジュが川岸の砂地に横たわる場面にもこの曲が流れます)この映画は、ドゥルーズカトリックの思想家フェリシテ=ロベール・ドゥ・ラムネ(Félicité-Robert de Lamennais,1782-1854)神父役で二場面に出ていることでも知られます。

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 日本未公開ですが、『ジョルジュ・すなわち…』もしくは『ジョルジュ、即ち……』の邦題で、1976年2月23日、1980年4月21日に東京日仏学院で上映されました。

 George qui ? (1973) 

 

 [2018年7月9日加筆]

 

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 『朝日新聞』1968年8月24日夕刊の(川)の署名記事「〝5月革命〟後の仏映画界」を引用します。

 

 フランスの〝五月革命〟のさなかで、他のどの分野の芸術家や文化人にもまして、はげしい活動を行なったのは映画人であった。フランソワ・トリュフォ、ジャン・リュック・ゴダールルイ・マルらが主体になってカンヌ映画祭を中断するかたわら、パリでは全映画人を結集して「ドゴール政権下の資本主義的ブルジョワ社会構造の全面的破壊」をスローガンに、「フランス映画三部会」と名づけられた共闘会議が結成された。しかし、六月にはいってゼネストの収拾とともに、現役の映画人の大半は、理想論に走りすぎた三部会を見捨てスタジオにもどり、三部会は若い批評家や映画学生だけがとり残され、自然消滅したかにみえた。総選挙の結果はドゴール派の圧勝。映画関係閣僚の顔ぶれも五月以前と変らず、アンドレ・マルロー文化相のもとにCNC(国立映画センター)のアンドレ・オロー代表はそのまま職務をつづけることになった。そしてフランスはバカンスにはいった。
 しかし、一部の映画人たちは三部会の改革構想をさらに現実的、具体的にすることを趣旨に、新たに、「フランス映画作家協会」を結成。シネマテーク・フランセーズの事務局を拠点とし、ロベール・ブレッソンを名誉会長にして、政府に対してかなりの影響力をもつ圧力団体的存在になりつつある。
 一方、〝五月革命〟から生れたフランス映画の動きで最も注目されるのは、クリス・マルケルウィリアム・クラインゴダールクロード・ルルーシュアラン・レネら、「ベトナムから遠く離れて」の監督グループと映画学生たちとが合体した、「シネ・トラクト」とよばれるミニ・フィルムの自主製作活動である。マルケル、ゴダールらは、各自十六ミリカメラで五月革命のあらゆる側面を記録した。またIDHEC(高等映画学院)やENPC(映画写真学校)の学生たちも、混乱にまぎれて占拠中の学校の機材やフィルムをもち出し、闘争現場にスタッフを送った。五月は映画学生にとって、理論から実践に移行する最高のチャンスだった。
 これらの監督や学生が回したフィルムの総量は七十時間を越えるといわれるが、これをもとにして上記の各監督が約三分間のミニ・フィルムをつくり、これを集会でパンフレット代りに上映し、ディスカッションにかけるというのである。
 シネ・トラクトとはシネ(映画)とトラクト(アジびら)の合成語であり、映画によるアジびらの意味。それは「フィルムによる革命の再確認」であるとともに、工場や労働組合や大学の共闘会議にディスカッションのテーマを提供し、行動方針を打立てようとするものである。シネ・トラクト一本の製作費は五〇フラン。売価も同じ五〇フランという利潤なしの自主活動である。「シネ・トラクトは、中国の文化大革命を促進した偉大な小冊子〝毛沢東語録〟に相当するものだ」とゴダールはいう。
 こうして、三部会の共闘精神は生きつづけ、一時は分裂したかにみえた現役の映画人と学生は再び団結し、活動が続行されている。