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主に映画にまつわる覚書

シャルル・L・ビッチ(Charles L. Bitsch, 1931-2016)追悼

   シャルル・L・ビッチ(Charles L. Bitsch)が2016年5月27日、85歳で亡くなりました。1950年代末の若者がつくったフランス映画の「新しい波(nouvelle vague)」と呼ばれる流行に大きく関わった一人です。
   ビッチは写真・映画国立学校(École nationale de photographie et cinématographie, ENPC)でフィリップ・ドゥ・ブロカ(Philippe de Broca, 1933-2004)、ピエール・ロム(Pierre Lhomme, 1930-)と共に学び、1953年に映画技術者の資格を得ました。
 ビッチは、2016年1月29日に87歳で亡くなった、ジャック・リヴェット(Jacques Rivette)監督の習作短篇映画『ディヴェルティスマン』La divertissement(1958)の撮影を担当しました。

 ビッチが撮影監督を担当した映画に、クロード・シャブロル(Claude Chabrol, 1930-2010)製作、リヴェット監督の商業短篇映画『羊飼いの詰め』Le coup du berger(1956)、シャブロル製作、エリック・ロメール(Éric Rohmer, 1920-2010)監督の短篇『ヴェロニクと怠慢な生徒』Véronique et son cancre(1958)、フランスワ・トリュフォー(François Truffaut, 1932-84)とシャブロルの共同製作、リヴェット監督の長篇『パリはわれらのもの』Paris nous appartient (1961)があります。

 

 『ヴェロニクと怠慢な生徒』は、2004年4月24日に紀伊國屋書店から発売された、『エリック・ロメール・コレクション DVD-BOX II』(KKDS-102、本体14,400円)に収録された『愛の昼下がり』のディスクに収録されました。

 『羊飼いの詰め』は『王手飛車取り』の日本語題名で、2005年6月24日にIVCから発売された『美しきセルジュ』+『王手飛車取り』のDVD(IVCF-5105、本体4,700円)に収録されました。

 

 『ディヴェルティスマン』の所在は1970年以後、長らく不明でしたが、リヴェット没後に未亡人ヴェロニク・リヴェット(Veronique Rivette, 1972-)により、パリのアパートでほかの習作と共に再発見されました。
 これらは2Kで修復され、2016年6月18日に、パリの郊外にあるパンタンのコテ・クール短篇映画祭 (Festival Coté Court de Pantin)で上映されます。

 

 日本では、「フランス映画祭2016」(6月24日-27日)で6月27日、17:20から有楽町朝日ホールにて『パリはわれらのもの』デジタルリマスター版がDCP上映されます。これはリヴェットの追悼上映として企画されたものですが、期せずしてビッチの追悼上映も兼ねることになってしまいました。

パリはわれらのもの | 6.24-27『フランス映画祭2016』公式サイト

  

 シャルル・ビッチの監督作には、ジョルジュ・ドゥ・ボルガールGeorges de Beauregard, 1920-84)製作、ラウル・クタール(Raoul Coutard, 1924-)撮影のオムニバス映画『いろんな接吻』Les baisers(1964。日本語題名『接吻・接吻・接吻』)の一挿話『高価な接吻』Cher baiserがあります。

 『接吻・接吻・接吻』は日本ヘラルド映画の配給で東京オリンピック開催中の1964年10月13日にイタリア映画『昨日・今日・明日』 Ieri, Oggi, Domani(1963)と2本立てで、TYチェーン(白系)の渋谷スカラ座、新宿劇場、池袋東宝、江東リッツ、上野宝塚、目黒スカラ座、川崎映画、横浜相鉄映画で封切られました。1998年4月18日には、クレストインターナショナルの配給で『キス!キス!キッス!』の日本語題名でシネセゾン渋谷で再公開されました。

 2001年12月21日、『キス!キス!キッス!』のDVD(IMBC-0158、本体4,700円)がビームスエンタテイメントから発売されました。

 

 フランス国立視聴覚研究所(イエナ)(INA, L'Institut national de l'audiovisuel)のアーカイヴで、 シャルル・ビッチ演出のTV番組「サシャ・ギトゥリについてフランスワ・トリュフォーが語る」François Truffaut à propos de Sacha Guitry (1974年10月31日放送、5分22秒)が視聴できます。

http://www.ina.fr/video/I00012554/francois-truffaut-a-propos-de-sacha-guitry-video.html


 英語圏のウェブ映画批評誌「映画の感覚(Senses of cinema)」に発表された、パリ在住の映画研究者サリー・シャフトウ(Sally Shafto)によるシャルル・ビッチのインタヴュー(1998年10月。英語訳)より、主に、ジャン=リュック・ゴダールJean-Luc Godard, 1930-)監督、ラウル・クタール撮影の『気ままに生きる』Vivre sa vie(1962。日本語題名『女と男のいる舗道』)に関する発言を引用します。ビッチはこの映画の最後の2分以上の長廻しのショットを撮影しました。

 ゴダールは『気ままに生きる』を撮った頃、同作にナナNana)の役で主演した妻のアンナ・カリーナAnna Karina, 1940-)との不仲に悩み、父親代わりのジャン=ピエール・メルヴィルJean-Pierre Melville, 1917-73)に過剰に依存していました。

 『気ままに生きる』の最後、ナナが殺されるのは、メルヴィルの個人撮影所であるパリ13区のジェンネル撮影所(Studios Jenner)の近く、エスキロル街(rue Esquiroll)の「撮影所レストラン(Restaurant des Studios)」前でした。

 『女と男のいる舗道』は、日本ヘラルド映画の配給で1963年11月19日、東宝系の日比谷・みゆき座にて公開されました。1994年10月28日、日本ヘラルド映画の配給で、シネセゾン渋谷のレイトショーで再公開されました。

   2013年5月24日、『女と男のいる舗道』のブルーレイ(DAXS-4407、本体4,800円)が角川書店から発売されました。

 

http://www.sensesofcinema.com/contents/08/46/charles-bitsch-interview.html

 

 ジャン=ピエール・メルヴィルとシャブロル(Chabrol)の撮影でもいろんなことをしました。メルヴィルの『いぬ』 Le Doulos(1962)では最初、助監督でしたが最終的に撮影技師になりました。『マンハッタンの二人の男』Deux hommes dans Manhattan(1959)ではたびたびショットのフレーミングを行ないました。製作者ジョルジュ・ドゥ・ボルガールのために働いていた頃、私はよく追加素材を撮りました。撮影の終わりに必要な場面やショットの追加さつえいです。たとえば『ランドリュ』Landru(1963)では撮影所で追加場面を撮りました。『いぬ』のインサート・ショットのすべても撮りました。
 I also did a lot of shooting with Jean-Pierre Melville and Chabrol. On Melville’s Le Doulos [1962], I began as an assistant director but I ended as cameraman. In Deux Hommes dans Manhattan [1959], I often framed the shots. At the time when I was working for the producer Georges de Beauregard, I frequently shot additional footage; at the end of the shoot, there would be scenes or shots to add. For Landru [1963], for example, I shot an additional scene in a studio. I also shot all the insert shots for Le Doulos.

 

 『小さな兵隊』 Le Petit soldat(1963)や『女は女』Une femme est une femme(1961。日本語題名『女は女である』)にも就いていませんね?

 この時期、私はシャブロルの『二重の鍵』A double tour や『おめでたい女たち』Les bonnes femmes(日本語題名『気のいい女たち』)、またメルヴィルの『マンハッタンの二人の男』の仕事をしていました。その後、健康を害し、1年間の休業を余儀なくされました。仕事を再開したのは1962年です。それは『気ままに生きる』でした。ジャン=リュックに就いた最初の映画です。私はある場面を撮りました。なぜかはよく覚えていませんが、クタール(Coutard)が映画を最後まで撮り終えることができなかったんです。私は同僚のジョルジュ・リロン(Georges Liron)と共にクタールの助手でした。映画の最後のほうでクタールはリロンと一緒に現場を離れ、私が引き継ぎました。撮影技師として、ゴダールは私に慣例とは正反対のことをやらせました。私はシャンゼリゼ大通りでのサディ・レボ(Sady Rebot)[ラウル(Raoul)]とアンナ・カリーナ[ナナ(Nana)]の会話場面を撮りました。一種の移動撮影がありましたが、ゴダールにこう言われました。《そこで移動を止める必要がある》。しかし私はゴダールに言いました。サディ・レボの首しか見えなくなるので、それはダメだと。するとゴダールは答えました。《それが狙いだ》。
 通常と違うやり方を強いられました。当時はビデオ・モニターなどないので、とても不安でした。監督も、その作品が成功か失敗かは、試写で初めてわかったんです。ジャン=リュックの場合、多くの心配がありました。彼の狙いが仮に厳密なものだったとしても、彼ははっきり説明するとは限らなかったからです。その結果、私は試写のあいだ中、ずっと不安でした。
 You didn’t work on Le Petit soldat (1963) or Une Femme est une femme (1961), either?

 During this period, I was working on either A double tour or Les Bonnes Femmes by Chabrol and also Melville’s Deux Hommes dans Manhattan. And then I had a health problem that forced me to stop working for a year. I began working again in 1962; it was on Vivre sa vie: film en douze tableaux, which was my first film with Jean-Luc. I shot a scene. I no longer remember why, but Coutard was unable to finish the film. So, I was Coutard’s assistant on the film with a fellow named Georges Liron. Toward the end of the film, Coutard left the set with Liron, and I took over. As cameraman, Godard asked me to do things completely contrary to the conventional methods. I shot the conversation scene on the Champs-Elysees between Sady Rebot [Raoul] and Anna Karina [Nana]. There was a sort of travelling shot, and Godard said to me: “You see that you must cut the travelling there.” But I told him that that wouldn’t work because we would see nothing of Sady Rebot, just his neck. And Godard responded: “That’s exactly what I want.”

 I was led to do things not in the habitual way. And I had good reason to worry because at the time there weren’t any video monitors. So it was only in the screening that the director would realize if the film was a failure or a success. With Jean-Luc, I had many a scare, because if his ideas were very precise on what he wanted, he wasn’t always very clear in his explanations. As a result, I was usually very anxious during the screenings.

 

 

『気ままに生きる』の撮影はいつでしたか?

 確か3月中でした。すごく寒かったのを覚えてます。その年の年初でした。

 When was the shoot of Vivre sa vie?

 It must have been in March. I remember it was pretty cold and it was towards the beginning of the year.

 

 

 

 メルヴィルと一緒に仕事をされたと言われました。彼の撮影所は13区にあったはずですが、どこだったか教えてもらえますか?

 ジェンネル街にありました。焼けてしまったので、もうありません。あの通りはたびたびメルヴィル作品の背景になっています。撮影所のあった場所の裏にはもっと小さな道があって、ジェンネル街に直行していました。ゴダールが『気ままに生きる』の最後の場面を撮った、アンナ・カリーナが撃たれる場所です。たしかアボンダンス街(rue des Abondances)です。メルヴィルの撮影所はその角にありました。ゴダールメルヴィルの間にいたので、あの界隈で多くの時間を過ごしました。

 You’ve also mentioned you worked with Melville. I understand his studio was in the 13th arrondissement. Can you tell me where?

Yes, it was in the rue Jenner. It no longer exists because it burned down. That street often served as a backdrop in Melville’s films. There is also a small street just behind where the studio was, a street perpendicular to the Jenner Street, where Godard shot the final scene in Vivre sa vie, where Anna Karina [Nana] is shot. It is perhaps the rue des Abondances. Melville’s studio was right on the corner. Between Godard and Melville, I spent quite a bit of time in that area.

 

   ちょっといいですか、ここにある地図でアボンダンス街を探してみますが……。見つかりませんね。

   なにしろ13区はすっかり変わってしまいましたからね。古いパリの地図が必要だ。ちょっと待ってください。上の階にあるはずなので……。
   Let me see if I can find the rue des Abondances on my map here … I don’t see it.

   You know that the 13th arrondissement underwent great changes. We need an old map of Paris. Wait a minute. I may have one upstairs …

 

   街が変わってしまったんではないかということですか?

   ええ、ジェンネル街からジャンヌ・ダルク街に抜ける道があったんですが、もうありません。パリは不変じゃない。発展する都市です…。ここにありました。通りの名前はアボンダンンス街(rue des Abondances)じゃなくてギュスターヴ・ムジュリエ街(rue Gustave Mesurier)です。『気ままに生きる』のナナが死ぬ場所です。この地図は1969年の出版です。この道はジェンネル街からエスキロル街までです。

  You think the street might have changed?

  Yes, because there was a street from the rue Jenner to the rue Jeanne d’Arc that no longer exists. You know that Paris is not static; the city evolves … Here, I found it. The name of the street is not the rue des Abondances but the rue Gustave Mesurier. That’s where Anna dies as Nana in Vivre sa vie. This map was published in 1969. The street begins at the rue Jenner and ends at the rue Esquirolle.

 

 ゴダールは13区が好きだったんですか?

 いえ、そういうわけじゃありません。ゴダールメルヴィルが好きだったので、この近隣で撮ることは、ひそかなメルヴィルへの目配せでした。ゴダールはよく、自分の実生活に関連する特定の場所を、室内であれ屋外であれ、選びますが、普通、観客はそれが何なのか気づきません。

  Godard liked the 13th arrondissement?

  No, it wasn’t that. It was rather that Godard liked Melville and shooting in this neighbourhood was a way of making a veiled reference to him. … Godard often chose locations, exteriors or interiors, in relation to something very precise in his life that we usually weren’t aware of.

 

   1963年6月21日から7月2日まで開催された第13回ベアリーン国際映画祭で24日に3回上映された『武士道残酷物語』は、『悪魔』Il Diavoloと共に金熊賞を受賞しました。
 『武士道残酷物語』に主演した中村錦之助(1932~97)と、当時の夫人で同作に出ている有馬稲子(1932~)と共にベアリーン映画祭に参加した審査員の1人は東京教育大学助教授のドイツ文学者・櫻井正寅(1914~69)でした。
 『朝日新聞』1963年8月14日朝刊に、櫻井正寅見てきたヨーロッパ映画(中)が掲載されましたが、この小文で櫻井はジャン=ピエール・メルヴィルとの出会いとジェンネル街のスタジオ訪問について語っています。
 当時、長篇劇映画をすでに7本監督していたメルヴィルの監督作は、日本では1本も公開されておらず、ローマで1963年1月18日に封切られた、メルヴィル監督のイタリア・フランス合作映画『いぬ』が東和の配給により、日比谷映画劇場で封切られるのは、1963年11月16日、つまり『女と男のいる舗道』が日比谷のみゆき座で封切られる3日前のことでした。
 
 「見てきたヨーロッパ映画界」(中)の前半部を引用します。

 ベルリン映画祭で同じ審査員として親しくなったフランスのジャン・ピエール・メルビル監督(「恐るべき子供たち」)は、たいへんな日本びいきで、自分の部屋を日本のもので飾っているというほど。パリの日本料理店「京都」で再会した。刺身と天プラとスキヤキという妙なメニューだったが、彼はじょうずにハシを使い、タクワンまで食べていた。十日間かよってハシの使い方をおぼえたと自慢していた。
 このあと、北停車場の近くにある自宅に招待されたが、住宅としては妙な建物だなと思っていたら、それは彼の持っている撮影所で、小さいながらスタジオが二つ、編集室、試写室、それに俳優たちの控室やバーまであり、できないのは録音だけだといっていた。自分たちの住いはその一部につくってあり、なるほど壁紙は日本紙で、いろいろと日本の調度品が置いてあった。
 彼は以前は監督だけでなく自分で製作も担当していたというが、最近はプロデュースは他人にまかせ、自分のスタジオで演出だけをしているという。このスタジオではヌーベルバーグの人たちも何本か製作したということだ。「スタジオがあるのだから自分の好きな作品がとれていいですね」といったら「私の好みの作品といっても、フランスの映画企業にとってマイナスになるようなものは撮らない」と答えていた。映画企業の危機をよくわきまえた言葉として印象深かった。