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主に映画にまつわる覚書

『さらば、愛の言葉よ』隠喩解義3 The Explications of the Metaphors in Godard's "Goodbye to Language" (3)

 タバコと火による交感:『キリマンジャロの雪』(1952)

   Communion by Cigarettes and Fire : "The Snows of Kilimanjaro" (1952)

 蓮實氏はこう言っています。「今回の『さらば、愛の言葉よ』にも何本かの映画が引用されているけれども、非常に有名な作品と全く無名なものとが並置されていて、これはさすがに知らなきゃいけないだろうボリス・バルネットのやハワード・ホークスフリッツ・ラングのものがあったりすると、なぜかヘンリー・キングの『キリマンジャロの雪』(一九五二年)が出てきたりする。あれはたぶん、カラーの感じがいちばんぴったりだったんじゃないかという気もするんですけども、「それじゃあ、あなた本当にヘンリー・キングの『キリマンジャロの雪観たの?」と言ったら、やっぱり観ていない人の方が多いんじゃないか」(p.82)。 

   これから述べることは、連想に基づくたんなる思いつきの検証にすぎませんが、ゴダールがこの映画で『キリマンジャロの雪』を引用した意味は違うところにあるように思います。

 それについて説明する前に、まずそれが映し出されるのと同じ部屋のヴィデオ・モニターに、ルーベン・マムーリアン(Rouben Mamoulian)のモノクロ映画『ジキル博士とハイド氏(Dr. Jekyll and Mr. Hyde)』(1931)が映し出される場面を見ておくのがいいでしょう。この場面は性欲の露骨な映画表現の象徴にも思えます。
 1934年に自主的な映画倫理規制が厳しくなる以前のハリウッド映画なので未婚の男女が同じベッドの上で性的に欲情し合って抱き合う場面、さらに裸になったことを暗示する女性が出てきます。それらは1934年以後のハリウッドの主流映画では、キリスト教の教えに反する不道徳を助長するとの理由で禁じられた映像です。

   画質はよくないですが参考動画を貼り付けておきます。引用箇所の直前のミリアム・ホプキンズ(Milliam Hopkins)演じる歌手アイヴィ(Ivy)が、フレドゥリック・マーチ(Fredric March)演じるジェクル医師(Dr. Jekyll)を誘惑する身ぶりの露骨さがわかります。ラニオン医師(Dr. Lanyon)役はホームズ・ハーバートゥ(Holmes Herbert)です。
 『さらば、愛の言葉よ』での引用箇所は参考動画の2分59秒から3分37秒くらいまでです。


 "Dr. Jekyll and Mr. Hyde" 1932 Dr. Jekyll's Fee - YouTube

 

ジェクル「痛みは今どう?(How is the pain now?)」
アイヴィ、ジェクルを抱き寄せキスをする。
ラニオンがドアを開けて現れる。「おい!(I say!)」
ジェクル(ラニオンに)「ああ、ラニオン。行くよ(Oh, Lanyon. Coming)」 (アイヴィに)「ぼくは医者だよ、そのキスは診療代と思うことにしよう(I'm a doctor, you know, and I'll call that kiss my fee)」 (戸口まで行き、アイヴィの脚に見とれるラニオンに)「さあ(Well?)」 
アイヴィ「すぐまた来れるわよね(Come back soon, won't you?)」
ジェクル「悪いが、来れないと思う(Sorry. I'm afraid I can't)」
アイヴィ(画面外)「あら、来れるわよ(Oh, yes, you can)」(シーツで胸を隠しベッドに座る上半身のショット)「すぐに(Soon)」 (画面外の室外のジェクル)「おやすみ(Good night)」。アイヴィ「また来れる(Come back)」 

  17分40秒、その場面が始まります。裸に近いジョゼットと黒いガウンを羽織ったジェデオンはモニターに背を向けて寄り添っています。
 ここで注目したいのはモニターで再生中の映画ではなく、ジェデオンの行動です。彼はいったん立ち上がり、画面左に姿を消したあと、また戻ってきます。そして、無言でジョゼットゥにタバコの箱を差し出します。彼女は一本のタバコを引き抜きます。
 ジェデオンは彼女に背を向けて床に座り、タバコをくわえます。ジョゼットゥは二人の新たな生活への不安を口にします。ジェデオンはくわえていたタバコを右手に持ち直し、彼女に、自分はまったく怖くないと答えます。 

 『キリマンジャロの雪』は、グレゴリー・ペック(Gregory Peck)が演じる作家ハリー・ストリートゥ(Harry Street)の回想形式で語られます。ゴダールがこの映画に興味をもつひとつの理由は原作がヘミングウェイ(Hemingway)だということと、この映画の主人公がイエパニア内戦の義勇兵に加わる大作家という設定だからでしょうか。
  あるいはエイヴァ・ガードゥナー(Ava Gardner)の出ている映画の中で、『キリマンジャロの雪』がたまたまパブリック・ドメインだったという理由があるのかもしれません。 
 ともあれ、『さらば、愛の言葉よ』で引用されるのは、山脈に属さない独立峰としては世界一の高さを誇るタンザニア北部のキリマンジャロに近い野営地で、すさんだ気持ちになったハリーが1946年に回想する、1920年代のパリでのハリーとシンティア・グリーン(Cynthia Green)の出会いの挿話です。この場面が引用されるのは、言葉を用いる以前の男女の運命的な出会い、電撃的な恋と別れという主題が『さらば、愛の言葉よ』のひとつの主題だからではないでしょうか。

 具体的な引用箇所を見てみましょう。この映画はパブリック・ドメインなので、参考用に、本編を貼り付けておきます。本来はスタンダード(1.37:1)ですが、上下をトリミングした版もあるので注意してください。
 アカデミー賞を四度受賞したリオン・シャムロイ(Leon Shamroy)の本来の照明設計が確認できないのは残念です。
 蓮實氏は「あれはたぶん、カラーの感じがいちばんぴったりだったんじゃないかという気もするんですけども」と述べているものの、『さらば、愛の言葉よ』では、元の素材も高品位のものが入手できなかったと思われますが、電子的加工により、意図的に極端に発色が変調され、本来の色調がまったくわからないので、画質が悪いとはいえ、YouTubeのほうがむしろ本来に近い形で、より自然に観ることができます。


Kilimanjaro'nun Karları - The Snows of Kilimanjaro - Gregory Peck, Ava Gardner, Susan Hayward 1952 - YouTube

 

  参考動画では16分50秒からパリの回想の挿話が始まります。まず映し出されるのはモンパルナスのダンスホール「エミル(Emile)」の夜の外観です。この場面は、あとで示すように、『さらば、愛の言葉よ』では一瞬しか引用されませんが、ハリーが初めてシンティアを見る描写の編集による語りの洗練は一見に値します。また、ここでのハリーとシンティアのあっけないすれ違いは『さらば、愛の言葉よ』で引用されるジャズ・クラブでの二人の急速な接近の伏線にもなっています。

    『さらば、愛の言葉よ』では、『キリマンジャロの雪』は、ジョゼットゥとジェデオンが夜のサービス・ステーションで犬のロクシーを拾ってきたらしい場面で、まず音声のみが引用されます。28分18秒の雨の降る車道のショットからです。
 ベニー・カーター(Benny Carter)の吹くアルト・サックスの旋律と共に、シンティアの台詞「違うわ。特にコンプトゥンの女ってわけじゃない。コンプトゥンの女なんかじゃ全然ない。私は自分自身…(No. I'm not particularly Compton's lady. I'm not Compton's lady at all. I'm my own...)」。参考動画だと22分30秒の音声です。

 参考動画18分59秒からのベニー・カーターの演奏場面はモダン・ジャズ・ファンにも一見をお勧めします。『キリマンジャロの雪』の音楽を作曲したのは『市民ケーンCitizen Kane)』(1941)や『めまい(Vertigo)』(1958)のバーナードゥ・ハーマン(Bernard Herrmann)ですが、主題曲「愛はシンティア(Love is Cynthia) 」 (のちに「ブルー・マウンテン(Blue mountain)」の題名で録音)の作曲者は『イヴの総て (All About Eve )』(1950)のアルフレドゥ・ニューマン(Alfred Newman)です。演奏場面抜粋動画も貼り付けておきます。

 https://www.youtube.com/watch?v=ndV6kv-L27k

 『さらば、愛の言葉よ』では28分24秒に金属を連打するような騒音と共にこの音声が途切れ、28分25秒に室内の犬のロクシーのショットに切り替わります。28分27秒に再び『キリマンジャロの雪』の音声が聞こえます。
 ロクシーがキャメラを見つめた瞬間、『キリマンジャロの雪』のハリーの「見た目のショット」、「エミル」で初めてシンティアを見た時の、ハリーの知人コンプトゥン(Compton)と踊りながら目を輝かせるシンティアの映像(参考動画の17分48秒)がフラッシュ的な一瞬だけ挿入されます。
 黒画面をはさんで、同じダンスのハリーの「見た目の」二番目のショットの別の瞬間(参考動画の18分01秒)、さらに別の瞬間(参考動画の17分53秒)、最後に、ハリーが思い切って踊っているコンプトゥンとシンティアに歩み寄った瞬間(参考動画の18分12秒)、最後にまた最初の「見た目のショット」の一瞬(参考動画の18分01秒)が挿入されます。この断続的なフラッシュ・ショットの引用は映画館で観てもほとんど識別できないと思います。
 このつなぎから、ロクシーがハリーになり代わって、モニター上の画面で踊るシンティアに目を奪われたかのようにも見えます。『キリマンジャロの雪』の元の場面のショット構成と比較すれば、そのことがよりよくわかります。『めまい』のスコティ(Scottie)が初めてマドゥレン(Madeleine)を盗み見る場面のショット構成ほど緊密ではありませんが、視線の欲望を効率的に表現する洗練された構成にはなっています。
 よくも悪くもゴダールがこの場面をヴィデオ・モニターで何度も止めて、一秒未満の単位で点検したのはまちがいないでしょう。高速で回転する運動をヴィデオ操作で分解するという方法はゴダール好みのように思えますが、ここではあえてその楽しさを観客に分け与えることを嫌味に避けているようでもあります。 
 28分38秒のシンティアの次の台詞はかなり聞き取りにくいですが、「私はすごく気に入ると思う(I expect I'd like it very much)」です。参考動画の22分51秒です。

 この台詞は参考動画22分41秒のハリーの言葉「ところで、もし君とぼくが、たんなる敬虔からここから離れるとしたらどう思う?(Well, how would you like it if you and I were to just piety right out of here?」に対し、間をおいて彼女が答える言葉ですが、『キリマンジャロの雪』では、その間にハリーの目を食い入るように見つめるシンティアの大写しが一瞬挿入されます。
 『さらば、愛の言葉よ』の28分49秒で、黒画面に流れ続けるベニー・カーターの演奏に、不意に画面外のジョゼットの「この家にずっと住んでるの?(Tu habites cette maison depuis longtemps?)」という声が重なります。28分52秒で『キリマンジャロの雪』の音声は消えます。
 チューリップの鉢の向こうの白いソファにロクシーが腹を向けて寝そべるショットの途中、28分56秒から再び『キリマンジャロの雪』の音声が聞こえます。シンティアが「父は兵士だった(My father was a soldier)」と言います。参考動画の23分29秒です。夜のパリの戸外での会話です。
 この場面がこのあとモニターに映し出されます。つまり、それまで聞こえていた『キリマンジャロの雪』の音声は、ジェデオンとジョゼットゥとロクシーが住む、雪の降る冬の室内のモニターの音声だったことがわかります。

父は運悪くアルゴンヌで殺された。それで戦争のあと、母国に父を連れ帰り埋葬するために海を越えて来たの。でも一度フランスに来てみると、どこよりもここに住むのが一番いいと決めたの。父のためにも自分のためにも。それで住み続けてるの。

He had the bad luck to get himself killed in the Argonne. So, after the war I came over to take him home to rest. But once I saw France, I decided that this is as good a place to rest as any...for him and for myself. So I stayed on.

  1918年10月8日の西部戦線のアルゴンヌの戦いは、ハウアドゥ・ホークス(Howard Hawks)によるアルヴィン・ヨーク(Alvin York)の伝記映画『ヨーク軍曹(Sergeant York )』(1941)でも描かれます。9月26日からの戦いは11月11日の休戦まで続き、米軍史上最大規模の120万人の兵士が投入されました。ちなみに、ヨークは敬虔なキリスト教徒で、自軍の十倍のドイツ軍と戦い奇跡的に大勝利を収めた米国の英雄です。

 『さらば、愛の言葉よ』に戻ると、29分21秒、雪の降り積もる夜の車道のショットから夜の室内のショットに切り替わります。この家ではほぼ全裸で過ごしていたジョゼットがここでは服を着ている最中です。
 ここで、初めて『キリマンジャロの雪』を再生中の室内のモニターが映し出されますが、色調が意図的に変えられ、細部を識別しにくくなっています。

 「お母さんはいないの?(No mother?)。「いないわ、何年も前から(No, not for years)」。「そうか(I see)」。

   モニターに背を向けて経つジョゼットゥに、画面外のジェデオンは「対面が言語を作り出すとすれば(Si le face-à-face invente le langage)」と言います。この時、モニターには向き合うハリーとシンティアが映し出されています。
 ジェデオンの台詞は、ゴダールが『キリマンジャロの雪』のこの場面を引用した理由を示唆しています。ジョゼットゥはこのショットで一度もモニターを見ません。

「ところで、今から落ちつける場所に行かないか? もう一軒のバーに行って、もう一杯やるのはどうかな?」「やめとくわ、酔ったみたいだし、もう飲みすぎたわ」「いいかい、パリでは…誰一人、家に帰ってくつろごうだなんて考えもしない」「タバコ一本もらえる?」
 Well, uh...where shall we go and rest right now?  Would you like to go and rest in another bar, have another drink? - No, I'm afraid I've gone and had too many again.  - You know, in Paris...nobody ever thinks of suggesting just going home... to rest. - May I have a cigarette?

  ここまで長々と展開を記述し続けてきたのは、この瞬間にたどり着くためです。「タバコ一本もらえる?」の台詞の直後、二人は無言で見つめ合います。『さらば、愛の言葉よ』ではわかりませんが、その直後、シンティアは目を伏せます。
   シンティアが「タバコ一本もらえる?」と言う一瞬前、画面外のジェデオンが「左右が逆になっていた(Gauche et droite ont été inversés)」と言います。これは鏡像を暗示しています。「タバコ一本もらえる?」の直後、ジェデオンは「でも天地は反転していなかった(mais pas l'haut et le bas)」と言います。
 ハリーがタバコの箱を取り出し、渡す瞬間、ジョゼットが立ち上がり、モニターが彼女に隠れて見えなくなります。ここの演出は計算されていると思われますが、ジョゼットゥが画面左に消えると同時に、モニターには、いつのまにかタバコをくわえた二人が映っていて、ハリーはマッチで火をつけ、その火に向け、二人は同時にタバコの先を近づけ火をつけます。これは、キスの代わりの文明的に洗練された儀式といえます。

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 ハリーとシンティアがくっつけ合ったタバコを離した直後、『さらば、愛の言葉よ』のショットは30分29秒で切り替わり、ジョゼットの顔の大写しになります。『キリマンジャロの雪』の画面は1分8秒は映っていたことになりますが、すでに指摘しておいた通り、ジョゼットゥは一度もその画面を見ません。
 ジョゼットゥの背後には彼女に背を向けて経つジェデオンの後頭部が見えます。つまり、この時、二人の男女は「対面(face-à-face)」ではなく、逆に顔を背け合っています。
 対面関係と背面関係(dos-à-dos)は共に鏡像関係といえます。奥行きの前後に並ぶ被写体は3D向きにも思えますが、『さらば、愛の言葉よ』での実験は、立体視体験への没入の追求よりも、同じ対象に向けられる二台のキャメラ、もしくは同じ人物設定なのに異なる身体をもつ二人の人物の異なる視点が見る二つの像の距離、矛盾を、同時性においてではなく、情景の時間差を伴う編集という技法にあるようにも思われます。

 ここまで見てきたように、ジキル博士とハイド氏』再生の場面でジェデオンがジョゼットゥに無言でタバコを渡すしぐさは、『キリマンジャロの雪』再生の伏線だったと同時に、言葉ではなく、タバコと火を介しての男女の交感を描いていたのだと想像できます。
 タバコと火を介しての交感は、男女だけでなく男性同士の間でも、タバコの有害性が社会常識となる以前のハリウッド映画で繰り返し描かれてきました。とりわけハウアドゥ・ホークスの映画では、それを繰り返し見ることができます。とはいえ、そこには女性同士の洗練された身ぶりによる交感が欠けていたかもしれません。 

 『さらば、愛の言葉よ』のあと二箇所のタバコの場面も見てきましょう。

 まず、26分56秒、晴れた日の路上に長い髪のジョゼットゥの影が映っている場面です。画面外のジョゼットゥが言います。「神の影。それは自分の男を愛する一人の女のためだけにあるのではないでしょうか(L'ombre de Dieu. Ne l'est-elle pas pour une femme qui aime son homme ?)」 。
 この台詞は、『こんにちは、マリア(Je vous salue, Marie)』(1985)、『ゴダールの決別』(1993)でも引用された、フランスで有名な精神分析家フランスワーズ・ドルト(Françoise Dolto)と同じく精神分析家ジェラール・セヴラン(Gérard Séverin)の対談集『精神分析の危険にさらされた福音書 (L'évangile au risque de la psychanalyse )』(邦訳『欲望への誘い:ドルト女史の聖書分析』)のドルトの発言の引用です。原文は「神の影、すべての男は自分の男を愛する一人の女だけのためにいるのではないのでしょうか(L'ombre de Dieu, tout homme ne l'est-il pas pour une femme qui aime son homme?)」です。
 ジョゼットゥの影の横に男の影が現れ、画面外のジェデオンが言います。「誰もが神をなかったことにできるのに誰もそうしない(Tout le monde peut faire qu'il n'y a pas de Dieu mais personne ne le fait)」。これは、フョードル・ドストイエフスキ(Fiodor Dostoïevski)の『悪霊』のフランス語訳『悪霊憑きたち(Les possédés)』第一部第三章第八節のキリーロフ(Kirilloff)の台詞「今では、誰もが神をなかったことにできるし、なにもなかったことにできる。なのにこれまで誰一人そうしなかった(Aujourd'hui chacun peut faire qu'il n'y ait pas de Dieu et qu'il n'y ait rien. Mais personne ne l'a jamais encore fait)」の引用です。
 この映画の最初の方の「ガス工場」前での古本交換バザーの場面の4分01秒でマリ(Marie)が手にした、文芸批評家マルトゥ・ロベール(Marthe Robert)の序文付きのガリマール出版(Editions Gallimard)のフォリオFolio)版の『悪霊憑き』第一分冊の表紙が映し出されます。
 『悪霊憑き』の同じ節の別の個所は、映画の最後のほうでゴダールとロレーヌ十字を描く女記者の対話の場面でゴダール自身の画面外の声が引用します。

 ジェデオンの影がジョゼットゥの影に一本のタバコを手渡し、受け取ったジョゼットは「ごめんなさい(Je suis désolée)」と言いますが、ジェデオンは「いや、あなたのことじゃありません、ジョゼットゥ(Ah, non, pas vous Josette)」と言いながら、自分も一本口にくわえ、二人はタバコを近づけ、ジェデオンがライターで火をつけます。

 彼から離れ、歩き出すジョゼットゥは、「なにも汲みつくされていない。歴史の今の時点までなにも対処されていない(Rien n’est épuisé. Rien n’était même abordé à ce moment de l’histoire)」と言います。 

 次は、同棲を始めた全裸のイヴィッチとマルキュスが室内にいる場面です。
 2013年5月29日に撮影されたこの場面の2013年5月29日の撮影については『ユリイカ』「ゴダール2015」に掲載された『ゴダールを待ちながら』(pp.86-95)の抜粋訳で言及されています(p.122-123.)。
 イヴィッチの裸の下半身を捉えたショットの途中、37分30秒、突然二つのショットが同時に重なります。彼女は画面外のマルキュスからタバコをもらい、火をつけてもらったようにも見えますが、視覚的にそれを確認することはほとんどできません。
 それでも、37分32秒、ライターが点火する時のような音が聞こえ、その次の瞬間、椅子に座るイヴィッチの右手はタバコをもっています。37分37秒、画面はいったん単一に戻りますが、イヴィッチがタバコを吸おうとする瞬間、また二重になります。
 38分12秒、ガウンを着た画面外のマルキュスが「自由そのものをあきらめれば、すべてが返ってきます(Renoncez à la liberté elle-même, et tout vous sera rendu)」と言い、彼の右手が花をイヴィッチに差し出します。イヴィッチは笑いながら、人差し指と中指のあいだにタバコをはさんだ右手でその花を受け取ります。その直後、画面外のマルキュスがスイッチを入れる音がし、暗かった室内が明るくなります。  

 『メトロポリス』がヴィデオ・モニターに映るショットの次のショット、52分09秒からは、暗がりの鏡の前でガウンを羽織り、立っているマルキュスのバストショットですが、彼は鏡に背を向け、キャメラを向いているのに対し、彼の右に立つイヴィッチは鏡を向いてキャメラに背を向けているので、後頭部しか見えないイヴィッチの顔は鏡に映った鏡像でしか見えません。
 マルキュスはイヴィッチと逆方向を向いたまま「鏡の中を見てください、イヴィッチ。二人がいます(Regardez dans le miroir, Ivitch. Il y a les deux)」と言います。確かに鏡に映るのはマルキュスの後頭部とイヴィッチの顔です。しかし、イヴィッチは言い返します。「あなたが言いたいのは…四人ってことね(Vous voulez dire, ...les quatre)。確かに、その瞬間映画に映っているのは、実像二人と虚像二人の四人です。
 このショットの空間配置上の背面関係は、関係性の危機を迎えた局面でのジョゼットゥとジェデオンの同様の背面関係と相似的です。 

 ゴダールが『キリマンジャロの雪』を引用したのは、引用箇所の最後の瞬間の、タバコの火を介する男女の交感を見せたかったのではないかというのが、ここでの仮説です。
 さらに、それは、『さらば、愛の言葉よ』の二組の男女、ジョゼットゥとジェデオン、イヴィッチとマルキュスの身ぶりの反復ではないかというのが第二の仮説です。 

 ここまでお読みいただいた読者の中には、映画を途中で止めたりしながら観るのは野蛮なふるまいだとお考えのかたもいるかもしれません。あるいは3D映画を2Dで観ても、その作品を「正統的に」観たことにならないという批判もあるかもしれません。
 あるいは、たかが映画を観るのに、まるで授業のように、普通に観ているかぎり、繰り返し観たとしても観過ごすほかないような細部まで予習や復習するのは面倒でバカバカしいというのも常識的な意見でしょう。
 そうだとしても、『さらば、愛の言葉よ』という映画興行の常識に照らして非常識な作品に限っていえば、あえて、ここで示したような、ヴィデオやウェブが汎用化し日用品化した時代ならではの、変則的な見方をすることで、普通の見方で連想、推測するのがきわめてむずかしい、作者の仕掛けにより多く気づけるという変則的な映画の楽しみや問いが得られる可能性も多少は説得的に示せたのではないかと思います。