映像記憶探偵 image memories detective

主に映画にまつわる覚書

ピエール・コトレル追悼 In memory of Pierre Cottrell

  フランスの映画製作者、映画字幕翻訳者ピエール・コトレル(Pierre Cottrell)が2015年7月23日に69歳で亡くなりました。

f:id:S-Hosokawa:20150727000505j:plain

 

 1987年から1991年までサンフランシスコ北に位置するミル・ヴァリーで彼と彼のアメリカ人の二人の娘と共に暮らした作家セシル・オダルチェンコ(Cécile Odartchenko, 1935-)が7月25日にブログで公表しました。

Jeudi 23 juillet 2015 :: mort de Pierre Cottre...

 

 ピエール・コトレルは第二次大戦終結後の1945年8月29日、フランスのベチュヌに生まれました。15歳でエリック・ロメール(Eric Rohmer, 1920-2010)と出会い、1962年に映画製作会社レ・フィルム・デュ・ロザンジュ(菱形映画社)をバルベ・シュレデール(Barbet Schroeder, 1941-) 、エリック・ロメールと共同で設立しました。

 ピエール・コトレルは、年長の友人だったジャン・ウスターシュ(Jean Eustache, 1938-81)監督、ジャン=ピエール・レオ(Jean-Pierre Léaud, 1944-)主演のモノクロで上映時間220分の『ママと娼婦』La Maman et la Putain(1973)を製作した革新的な映画製作者として知られています。 

 2011年6月22日から7月10日にかけて、パリのシネマテーク・フランセーズは彼の回顧特集を行いました。
 
 1945年生まれのピエール・コトレルは、1958年、13歳の時、パリ5区のリセ・アンリ四世校の生徒でした。彼は、有名な映画批評家、作家でもあるジャン=ルイ・ボリ(Jean-Louis Bory, 1919-79)に古典文学を教わり、彼の影響を受けて、同級生で、後に映画史家、映画字幕翻訳者となるベルナール・エイゼンシッツ(Bernard Eisenschitz, 1944-)らと共にアメリカ映画に熱中する映画狂になりました。
 ピエール・コトレルが映画批評誌『キャイエ・デュ・シネマ(Cahiers du cinéma)』編集長エリック・ロメールと出会ったのは、1960年、15歳の時でした。
 コトレルは、1962年にレ・フィルム・ロザンジュの創設に参加した後、1963年には渡米し、ハリウッドの映画人と知り合いました。
 1966年に、ハリウッドの独立系の製作者ロジャー・コーマン(Roger Corman, 1926-)の指示で、モンティ・ヘルマン(Monte Hellman, 1929-)の二本の異色西部劇『旋風の中、馬を駆れ』[Ride in the Whirlwind](1966、日本語題名『旋風の中に馬を進めろ』)と『銃撃』The Shooting(1966)をヨーロッパ市場に売り込むために、カンヌ国際映画祭に派遣された、両方の作品の主演者ジャック・ニコルスン(Jack Nicholson, 1937-)は、映画祭のあと、パリのコトレルの家に泊まりました。
 コトレルはコーマン製作の『ワイルド・レーサーズ』The Wild Racers(1968)でコーマンの助手を務めました。撮影監督の一人は、ロメール映画の撮影監督でもあったネストル・アルメンドロス(Néstor Almendros , 1930-92)です。

 

f:id:S-Hosokawa:20150805172405j:plain

 1969年、モンテカルロでエディット・コトレルが撮影した、ピエール・コトレル、ジャック・ニコルスンと彼の当時の恋人だったミミ・マチュ(Mimi Machu, 1944-)


 1972年に、世界的にヒットした、デニス・ホッパー(Dennis Hopper, 1936-2010)のヒッピー映画『イージー・ライダー』Easy Rider(1969。日本語題名『イージーライダー』)の製作者で、ジャック・ニコルスン主演の『やさしい五つの曲』Five Easy Pieces(1970。日本語題名『ファイブ・イージー・ピーセス』)の監督でもあるボブ・ラフェルスン(Bob Rafelson, 1933-)から6万ドルの出資を受けたコトレルは、ルイ・マル(Louis Malle, 1932-95)の弟にあたる映画製作者ヴァンサン・マル(Vincent Malle . 1944-2011)の出資も受け、『ママと娼婦』を製作しました。

 この映画は1973年5月の第26回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、マルコ・フェレーリ(Marco Ferreri, 1928-97)の『大食』La grande bouffe(日本語題名『最後の晩餐』)と共に、国際映画批評家連盟賞を受賞しました。

www.youtube.com


 なお、同年の最高賞受賞作は、ジェリー・シャッツバーグ(Jerry Schatzberg, 1927-)の『かかし 』Scarecrow(日本語題名スケアクロウ)とL. P. ハートリー(L. P. Hartley, 1895-1972)の同名小説(1957)に基づく、アラン・ブリジズ(Alan Bridges, 1927-2013)の『雇い人』The Hirelingでした。

 かつての恩師ジャン=ルイ・ボリや、同年の映画祭の審査員長を務めたイングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman, 1915-82)は『ママと娼婦』の成熟を拒む内向性を嫌いましたが、アメリカの有名な映画批評家ポーリン・ケイル(Paulin Kael, 1919-2001)らに絶賛されたこの映画は今ではカルト映画として国際的に知られています。

 

f:id:S-Hosokawa:20150725134717j:plain

 

f:id:S-Hosokawa:20150727001144j:plain


   当時、ピエール・コトレル夫人だったエディット・コトレル(Edith Cottrell)は、1970年代に、アメリカとヨーロッパの映画人、映画スターのエージェントとして知られていました。

 1970年代初め、エディット・コトレルは、J・G・バラード(J. G. Ballard, 1930-2009) の小説『結晶世界』The Crystal World(1966)の映画化権を取得し、1968年から5年間パリに住んでいたアメリカの映画批評家ジョナサン・ローゼンバウム(Jonathan Rosenbaum, 1943-) に脚色を依頼していました。

 ローゼンバウムは1972年5月のカンヌ国際映画祭に初監督作『ブラザー・カール 』Bröder Carl(1971)を出品していたスーザン・ソンタグ(Susan Sontag, 1933-2004)と会い、監督を打診しました。
 さらにローゼンバウムは1973年3月17日の午後、パリで、エディット・コトレルの友人だったジーン・シィバーグ(Jean Seberg,1938-79)と会い、最初の原稿を読ませましたが、映画化は実現しませんでした。

  エディット・コトレルは、ヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders, 1945-)とデニス・ホッパーのエージェントでもありました。当時、アメリカ映画の仕事を見つけられずにいたホッパーは、エディットの紹介でヴェンダースと3度会い、ヴェンダース監督の西ドイツ映画『アメリカの友人』Der amerikanische Freund(1977)の主演に起用されました。ヴェンダースは当初、ジョン・キャサヴェテス(John Cassavetes, 1929-89)を主演に考えていたそうです。レ・フィルム・デュ・ロザンジュも製作に加わったこの映画でピエール・コトレルは製作管理を担当しています。

 コトレル製作、ウスターシュ監督の『ぼくの小さな恋人たち』Mes petites amoureuses(1974)に主演した少年マルタン・ローブ(Martin Loeb, 1959-)は、セシル・オダルチェンコと画廊主のアルベール・ローブ(Albert Loeb, 1932-)の息子です。マルタンの姉の歌手キャロリーヌ・ローブ(Caroline Loeb, 1955-)もこの映画に端役で出ています。
 アルベール・ローブの姉の画廊主フロランス・ローブ(Florence Loeb, 1929-2011 と劇作家のロマン・ヴェンガルテン(Romain Weingarten, 1926-2006)の娘が『ママと娼婦』に出ているイザベル・ヴェンガルテン(Isabelle Weingarten, 1950-)です。
 ピエール・コトレルは、ヴェンダースと、『アメリカの友人』に出演していたニコラス・レイ(Nicholas Ray, 1911-79)の記録映画『水上の稲妻』Lightning Over Water (1980。日本語題名『ニックス・ムービー/水上の稲妻』)の製作者の一人で同作に出演もしています。
 コトレルが製作に参加した、ヴェンダースの『物の状態』Der Stand der Dinge (1982。日本語題名『ことの次第』)に出演したイザベル・ヴェンガルテンは、1981年から1982年まで、ヴェンダースと結婚していました。 
 

   ところで、フランス映画、厳密にはフランスの商業映画の周縁的な実験的劇映画は、さまざまな創作ジャンルで従来の保守的な高級創作や通俗創作に代わる実験的な創作が発達した1960年代半ば以後、必ずしも興行的にも批評的にも、ただちに成功することがないとしても、国家や自治体や財団などの財政支援を受けつつ、作られ続けてます。
 その実験性は、実験演劇の延長にありますが、映画ならではの特性としての、偶然性やたまたま存在する事物を利用するドキュメンタリー性、即興性、超現実的な異化効果を強調する傾向があります。

 そのような実験的劇映画も、1960年代までに国際的に有名になっていた監督の作品や、同時代的に人気のあるスターの主演作であれば国外で商業公開できる場合もありましたが、監督や出演者の国際的知名度の低い作品は、国外で商業公開するのがむずかしくなりました。
 1964年に外国映画の輸入が自由化された日本では、1962年から外国の実験的劇映画の配給を始め、1967年から実験的劇映画の製作も始めた日本アート・シアター・ギルド(ATG)が、商業劇映画における実験の世界的流れに同伴していましたが、1970年代半ば以後、日本国内での実験的劇映画の商業的興行は急速に衰退しました。
 フランス映画も、第二次世界大戦後のフランスの「輝ける30年(Les Trente Glorieuses)」と呼ばれた経済成長期(1945-75)の後半に世界的に注目されましたが、それ以後は国際的影響力を低下させました。日本でも、1960年代に人気のあった国際的スターであるアラン・ドゥロン(Alain Delon, 1935-)、ジャン=ポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo, 1933-)、キャトリーヌ・ドゥヌーヴ(Catherine Deneuve, 1943-)らの主演作を例外として、ほとんど同時代的に輸入されなくなりました。

 西ドイツの同時代の実験的劇映画も、東京、大阪などの大都市に限られた映画祭でしか上映されませんでした。

 その流れが変わり始めたのは、東急グループ東急レクリエーションが運営する、一脚7万円の高級座席を備え、番組ごとに縦22センチ、横15センチの高級解説冊子を発行した、新宿の「シネマスクエアとうきゅう」(座席数224)が開館(2014年末に閉館)し、ミニシアターと呼ばれる単独封切り館が流行し始めた1981年12月以後です。

 レ・フィルム・デュ・ロザンジュ製作で、コトレルも製作に参加した映画で、日本で最初に公開されたのは、バルベ・シュレデールの監督第一作にあたる、ヘロイン中毒を扱うヒッピー映画『モア』More(1969)です。この映画は、シュレデールの母親の別荘があった、地中海のイビサ島でロケ撮影されました。1971年2月20日に現代映画の配給で有楽町のスバル座(座席数270)で公開されました。

 当時人気のあった実験的なロック・グループ、ピンク・フロイドPink Floyd)が音楽を担当していたため、同時代的には、一般の洋画ファンよりも、若いロック・ファンや前衛アート・ファンに知られていたかもしれません。

 ピンク・フロイドは1971年8月に初来日し、ニッポン放送の主催で、箱根で開催された野外フェスティバル「箱根アフロディーテ」(8月6日、7日)に出演し、9日には大阪公演も行いました。1972年3月にもフジテレビの主催で来日し、3月6日,7日の東京体育館に続き、大阪、京都、札幌でも公演を行ないました。
 東芝音楽工業から、サウンドトラック盤のLP『モア』(定価2,000円)と、シングル・カットされた『ナイルの歌/モア主題』The Nile Song / Main ThemeのEP(定価400円)、も発売されました。

 

f:id:S-Hosokawa:20150727125242j:plain


 ピンク・フロイドは、シュレデールの長篇二作目にあたる、オーストレイリア領パプア・ニューギニアのジャングルで撮影された『谷』La vallée(1972。日本語題名『ラ・ヴァレ』)の音楽も担当しました。この映画はコトレルがレ・フィルム・デュ・ロザンジュを離れた直後の作品です。
 日本ではサウントラック盤LP『雲で影になって』Obscured by Cloudsは『雲の影』の日本語題名で東芝音楽工業から発売(定価2,000円)されたものの、映画が初公開されたのは、実に30数年後のことでした。日本スカイウェイの配給で、渋谷シアター・イメージフォーラムで「PINK FLOYD映画音楽 2作品連続レイトロードショー」で、2007年10月27日から『モア』が再公開されたのに続き、11月3日から『ラ・ヴァレ』が連日PM9:00からデジタルビデオ上映されました。

 

   2015年5月のカンヌ国際映画祭でプレミア上映された、シュレデール監督のスイス=フランス合作の英語の映画『アムネジア』Amnesiaは、『モア』と同じイビサ島でロケ撮影されました。
 1980年代半ばに、ドラッグの盛んなイビサ島では、当時、4つ打ちの電子ダンス音楽の革命を迎えつつあったクラブ・ミュージックが栄え、世界中から有名なクラブDJが集まる有名な土地になっていました。この映画は、1990年、壁が崩壊した直後のベルリンからこの島にやって来た25歳のDJジョー(Jo)の物語で、題名は「記憶喪失」を意味するイイサ島の最大のクラブの名前です。第二次大戦直後に、ユダヤ人ではないのにナチスを逃れて亡命し、ドイツ語を話すのをやめた女性マルタ(Martha)の役は、ドイツ人でありながらスイスのフランス語圏のジュネーヴに亡命した、シュレデールの母親ウアズラ(Ursula, 1916-)の体験が元になっています。

 シュレデールの母方の祖父ハンス・プリンツホルン(Hans Prinzhorn, 1886-1933)はドイツの有名な精神科医、美術史家です。1922年に、プリンツホルンが150余枚に及ぶ図版と共に精神病患者の創作物を紹介した著作『精神障碍の芸術的効果』Bildnerei der Geisteskrankenの日本語訳『精神病者はなにを創造したのか: アウトサイダー・アートアール・ブリュットの原点』は、2014年9月30日に、ミネルヴァ書房から刊行されました。この本は、超現実主義の芸術家らに大きな影響を与え、大正末期の日本で、洋画家の古賀春江(1895-1933)、版画家の山本鼎(1882-1946)、精神科医の式場隆三郎(1898-1965)などに影響を与えました。

 ウアズラはジュネーヴで出会ったスイス人の地質学者ジャン=ウィリアム・シュレデール(Jean-William Schroeder, 1916-2007)と結婚しました。ジャン・ウィリアムはドイツ語を話さなかったそうです。彼の赴任先のイランの首都テヘランで、1941年8月26日、バルベが生まれました。バルベは南米のコロンビアで幼少期を過ごしましたが、1952年に両親は離婚しました。その後、パリに移住したバルベは、リセ・コンドルセ校と、アンリ四世校で学び、ソルボンヌ大学で哲学を学びました。 

  2015年7月末に発売された『映画芸術』452号に掲載された、パリ在住の魚住桜子の連載インタビュー「バーベット・シュローダー:ロメールのこと、ヌーヴェル・ヴァーグのこと、そして私の映画のこと」で、『アムネジア』についても言及されています。

 

www.filmsdulosange.fr

 

 レ・フィルム・デュ・ロザンジュ製作、ロメール監督の『愛の昼下がり[L'Amour l'après-midi ]』(1972)は、日本では、フランス政府の外郭団体、ユニフランス・フィルム主催の「フランス映画の夕べ 1973年春」の番組として東京商工会議所ビル内の4階にある東商ホールで1973年3月21日に上映されました。しかし、この映画が日本で商業公開されたのは20年以上あとのことでした。

 『愛の昼下がり』は、1996年2月から3月にかけての、シネセゾン(1984年から1998年まで映画配給事業を行なった)配給、西武百貨店を母体とするセゾン・グループ(西武流通グループ)が運営する六本木の映像と音楽文化事業の総合施設WAVEの地下1階にあったミニシアターのシネ・ヴィヴァン六本木(座席数143)での特集上映「エリック・ロメール 愛と欲望 パリ5千ヘクタールの新世界 」 の一番組として2月3日に公開されました。

 

  コトレルは、ロジャー・コーマンに頼まれ、雑誌『PLAYBOY』創刊者で富豪として知られるヒュー・ヘフナー(Hugh Hefner, 1926-)が製作した、ポール・セルー(Paul Theroux, 1941-) の同名小説(1973)に基づき、シンガポールで撮影された、ピーター・ボグダノヴィッチ(Peter Bogdanovich, 1939-)監督、ベン・ガザーラ(Ben Gazzara,  1930-2012)主演の『聖ジャック[Saint Jack]』(1980)の製作にも加わりました。撮影監督はヴェンダース映画の撮影監督として知られるロビー・ミュレール(Robby Müller, 1940-)です。
 ポール・セルーは日本では、阿川弘之(1920-2015)訳の『鉄道大バザール The Great Railway Bazaar』(原著1975、講談社、1977)や村上春樹(1949-)訳の短篇集『ワールズ・エンド(世界の果て)』(中央公論新社、2007)などの邦訳で知られています。『聖ジャック』はシンガポールで娼館を開こうとするアメリカ人、ジャック・フラワーズ(Jack Flowers)の物語で、シンガポールで30年刊発禁となりました。

 

 コトレルは、ポルトガルの若い独立系の映画製作者パウル・ブランコ(Paulo Branco, 1950-)製作、ラウル・ルイス(Raoul Ruiz, 1941-2011)監督の実験的劇映画『テリトリー[The Territory ]』(1981)の製作にも参加しました。この映画には、世界一の大富豪だった石油王J・ポール・ゲティ(J. Paul Getty, 1892-1976)の孫で、1973年7月10日にローマで誘拐されたことで知られる、ジョン・ポール・ゲティ三世(John Paul Getty III、1956-2011)やイザベル・ヴェンガルテンが出ています。

www.youtube.com


 
 『テリトリー』と同じロケ地と出演者の一部、フランス人の撮影監督アンリ・アルカン(Henri Alekan, 1909-2001)などを転用し、コトレルが製作に加わった『ことの次第』は、1983年に、ドイツ映画輸出協会、ドイツ映画振興協会、大映インターナショナルフィルムの主催で、渋谷の東急文化会館の6階にあった東急名画座(座席数381)で行なわれた「第1回ドイツ映画祭」で初日の4月9日に上映されました。ヴェンダースはこの時、初来日しました。『ことの次第』は、その半年後の1983年11月5日に、大映インターナショナルフィルムの配給で正式公開されましたが、当時はほとんど話題になりませんでした。

 『ことの次第』は、1993年12月26日に、大映株式会社の配給により、ニュープリントで千石の三百人劇場(座席数302)でリヴァイヴァル公開されました。この頃には、ヴェンダースの名前は日本のアートハウス映画ファンのあいだで有名になっていました。
 三百人劇場の正式名称は「財団法人現代演劇協会 劇団昴 三百人劇場」で、1974年に開館しました。1976年5月の映画『ハムレット [Hamlet]』(1948)のインターナショナル・プロモーションズ(IP)配給のリヴァイヴァル上映以後、アートハウス系の映画上映も行い、1974年から常設映画館となった神保町の岩波ホールに続き、ミニシアターの先駆けとなりました。

 コトレルが離れたあとのレ・フィルム・デュ・ロザンジュ製作のロメール監督作が日本で初めて商業公開されたのは、フランス映画社(1970年から2010年まで映画配給事業を行なった)の配給による、1985年6月22日の『海辺のポーリーヌ「Pauline à la plage]』(1983)のスバル座での公開でした。
 コトレルがレ・フィルム・デュ・ロザンジュで製作を手がけたロメール監督作では、1988年11月23日に、ユーロスペース(1982年から映画配給開始)の配給で渋谷の桜丘町にあったミニシアターの旧ユーロスペース(座席数75)で公開されたジャン=ルイ・トランティニャン(Jean-Louis Trintignant, 1930-)主演の『モード家の一夜[Ma nuit chez Maud]』(1969)が日本初公開となりました。

f:id:S-Hosokawa:20150727115341j:plain


    その後、コトレル製作、ロメール監督、ジャン=クロード・ブリアリ(Jean-Claude Brialy, 1933-2007)主演の『クレールの膝[Le genou de Claire]』(1970)も1989年7月29日にシネセゾンの配給で『レネットとミラベル 四つの冒険[4 aventures de Reinette et Mirabelle ]』(1987)との二本立てで、シネ・ヴィヴァン六本木で公開されました。
 
 『ママと娼婦』は、1984年9月から10月のフランス大使館、シネセゾン、西武美術館が主催の「フランス新作映画祭」の番組としてシネ・ヴィヴァン六本木で10月12日に字幕なしで初上映されました。その10数年後の1996年3月23日に、ユーロスペースの配給で、1994年の改装で2スクリーンとなったユーロスペース1(座席数75)で正式公開されました。1973年5月16日のカンヌ映画祭での公開から実に20年以上が経っていました。

f:id:S-Hosokawa:20150727111715j:plain


 『ぼくの小さな恋人たち』は、初公開から25年近くを経た2001年3月31日に、ユーロスペースの配給でユーロスペースで催された特集上映「ジャン・ユスターシュの時代」の番組として、ウスターシュの19分の短篇『アリックスの写真[Les Photos d'Alix]』(1980)と共に公開されました。ただし、初公開時には正規のアスペクト比が 1.37 : 1なのに対し、上下をマスキングした1.66:1に近いアスペクト比で映写されました。 

ジャン・ユスターシュ

ジャン・ユスターシュ

 

 

    当時まだ20代後半のコトレルが製作に加わった、『モア』以後の1969年から1974年にかけて公開された5本の映画は、日本では、コトレルが40代から50代にかけてだった、1988年から2001年にかけて正式公開されたことになります。

 コトレルはロメール監督作としては約30年ぶりに、ロメールの大作『グレースと公爵[L'anglaise et le duc]』(2001)の製作にも参加しました。この映画はプレノン・アッシュ(1992年から2010年まで映画配給事業を行なった)の配給で、東宝直営の初のミニシアター、日比谷のシャンテ・シネ1(座席数226)で2002年12月21日に日本公開されました。

 コトレルは、イラン出身のババク・ショクリアン(Babak Shokrian, 1965-)製作・監督のアメリカ映画『シャー・ボブ[Shah Bob]』(2015)の製作にもクレジットされています。公開待機中のこの映画が、映画製作者としてのコトレルの遺作となりました。

www.youtube.com